◎ 政 治 ◎ 明日の出陣式を前に
いよいよ明日公示日を迎える。公職選挙法の規定により、12月16日日曜日の投開票日後までブログを更新することはできない。いつもお読みいただいているみなさまにあらためて感謝申し上げるとともに、ご了解をいただきたい。私の申し上げたいことの多くはこのホームページのこれまでのブログの記事や動画に掲載してある。
今回の選挙は、14(?)の政党が乱立するきわめて異常な選挙となった。その多くは民主党が分裂したためにできたものだ。ここで名指しで批判はしないが、いくつか私の所感を指摘しておく。
まず、ほかの政治と社会の問題点、争点を隠して選挙の目的をたったひとつの問題にすりかえる「シングルイシュー選挙」が、平成17年の「郵政民営化」、 21年「政権交代」と二度も続いた。その結果が広がるばかりの社会格差、膨らむばかりのムダ遣い、そして迷走する外交国防だ。
にもかかわらず、乱立する政党の多くが同じ轍を踏み、今度は「脱原発、是か非か」のシングルイシュー選挙をしかけようとしている。原発、エネルギーの問題は もちろん重要だが、日本のかかえる問題はそれだけではない。例えば、ご皇室のあり方や歴史教育の問題などどうなのか。シングルイシュー選挙で生まれたシングルイシュー政党に、将来の日本を預けることができるとは思えない。
さらに、第三極(第二極??)とかっこいい看板を掲げておきながら、政策的にまったく統一もなく、主義主張はぶれまくり、挙句の果てには立候補者を駒や道具のように扱い自分の主張(=政策)すら語らせない、有権者に白紙委任を求めるようないい加減な政党もある。国会議員は、首長(=知事、市町村長、特別区長)とは違う。時に議論に時間がかかり、なかなか決められないことはあっても、独裁者による支配は抑止できるというのが、議会制民主主義の制度であり、ご皇室を仰ぐわが国の伝統である。首長のやり方を国政にそのまま持ち込むというのは、傲慢も甚だしく、日本の「國體」への侮辱である。少なくとも、「保守」の看板を掲げることを受け入れることは絶対にできない。いや、もはや「保守」という言葉が陳腐化している。排外的、独善的な思考停止状態の自称「保守」派の面々を見てつくづくそう思う。
私は、次の選挙で本当の意味での「国益と国民の生活を守る」政治家が国政に復帰し、政権をとることを期待する。
繰り返しになるが、私の信じる本当の「保守」とは、なんでもかんでもがんこに古いものを守るという意味ではなく、またむやみに他者を攻撃したり排除したりするのでもなく、守るべきものは守り、変えるべきを変えるということだ。
さらに言えば、見えないところで地道に階段を一歩一歩あがって努力している人、具体的には、農業者や工場で働く方々のように汗とほこりと油にまみれながらこつこつと生産し続けている人、漁船に乗って荒れた海の中で漁をする人、雨が降ろうと風が吹こうと山道であろうが、離島にも毎日郵便を配達する人、こうした一生懸命に働いている人たちがしっかりと報われる社会をつくることが保守本来の姿であり、政治の役目だと考える。けっして、ホリエモンのようなマネーゲームの勝者や一部の既得権益の利害関係者のためではない。
私の信念は、「国益と国民の生活を守る」と同時に、ご先祖様から受け継いだ日本の和の精神や共存共栄型の国柄を子々孫々まで伝え、護るということでもある。また、日本の精神的及び物質的な繁栄は、世界中におすそわけすべきであるし、日本こそ率先して世界平和に貢献しなければならない。本来あるべき日本的な価値こそこの三次元世界(=現界)における国際社会の規範となるべきものである。
私のあらゆる政策理念は、この信念を出発点にしている。そして、日本の国柄及び国益と国民の生活を守る政党こそが、真の国民政党、責任政党である。このブログをお読みいただいている志の高い賢明な読者のみなさまは、TPPや人権委員会設置法案、地方分権の推進(例えば道州制)、行き過ぎた官僚バッシング(統治機構改革というか「改悪」)の背後にあるものの正体がおそらく何かお分かりであろう(そういう意味で大阪の某政党の一部の方は背筋が寒くなるほどぞっとする存在である。150年ほど前の明治「維新」こそ疑うべきなのに。)。
日本全国の有権者のみなさまが、太古に思いを致し(なお、今年は古事記編纂1300年である)、50年100年の日本国と国民の将来を見据え、大所高所から所属政党よりも、その候補者の○格(○は伏字。なお○は「人」ではない。)を見ていただき、感じていただくことを、切に願う次第である。