◎ 政 治 ◎ サイレントマジョリティとノイジィマイノリティ
あたかも自分が正義の味方のようにわあわあギャーギャー騒いで、他人を罵倒批判して、てんとして恥じないやからが最近多くなった。こういう連中のことをnoisy minority(ノイジィマイノリティ)と呼ぶそうだ。どこかのかわいそうな国とそっくりだ。
こういう謙虚さのない連中は無視するに限ると、今日私がアレンジした夕食会で、今や数少なくなった同志の参議院議員N氏や通産官僚出身の論客のN氏、草莽崛起のM氏も言っておられた。が、そうはいっても精神的にも大陸系の気質の自称保守系の方々も日本国に居住して活動している以上、「おおみたから」なのであるからして、ほうっておくことはできない。
思うに、サイレントマジョリティ(silent majority)、すなわち、もの言わぬ無辜の民にこそ、真理や神理があるとみるべきなのではないか。進化論はじめ、哲学、心理学はじめアカデミズムにおちいると、そこから学術論争が起き、他者の排除や固定化が始まる。そこから無用な争いが生じ誰かが漁夫の利を得る構図が生じてしまうのである。いつの時代にも「すきま産業」の担い手があるのだ。
明治以来の神道系の宗教団体も100何十年をへて、日本の本来のあるべき「和合」に帰着するどころか、分派を繰り返している。そういう団体の信者の方にあえて問いたい。「天皇陛下と教祖様どちらを上位におきますか?」と。
本来、日本の国柄は、「他者を排除しない、相手の尊重する」という善悪二元論的な単純化とは違った、より高度な次元に太古の時代に達している。にもかかわらず、欧米の哲学等の影響を受けて、説明できるできない、論理的か否かという、その程度の表層的な次元でものごとを判断するようになった。明治維新と欧米流の近代化すら疑おうとしない。
私が最近提唱している「排外的保守、独善的保守、思考停止型保守」からの脱却こそ問われているのである。
もっと目に見えないものを大切にして、その目に見えない四次元以上の世界のものですら、絶対と相対の間を行きつ戻りつしていることにそろそろ気がつくときがきたのではないだろうか。