自然環境と神様
人間の都合で開発し尽くされたかに見える大都会東京にも、緑の残っている場所がある。私も本来ならば、父の出身地の浜松市で出産の予定であったが、たまたま両親が仕事の関係で広島におり、いろいろあって母の両親の当時の居住地の新宿に数ヶ月戻ってこの世に生を受けた。今から約四十年前の昭和四十年四月十九日のことである。
町外れの神社やお寺の森など、いわゆる鎮守の杜はまだまだ健在だ。樹齢百年という巨木は、神様が宿るご神木として祀られ、その木々は地域の人が集まり憩う場所、子供たちが遊ぶ場所として、地域にコミュニティを提供してきた。一方、神様が棲む犯してはならない場所として、厳格に守られてきた森もある。奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は、三輪山とい山自体がご神体で、山に足を踏み入れることすら禁じられている。だから三輪山には手つかずの原生林が残ってる。そういった自然の中の神社もあるが、都市部の産土神社もひっそりと残っている。
古来、日本人にとって自然は神様そのもであった。太陽にも月にも山にも川にも海にも神が宿り(八百萬の神)、これらの神々を畏れ敬い大切に守ってきた。だから日本は美しい自然が保たれたのである。
地図上に線を引き保護区を指定したり、莫大な予算を注ぎ込んで保護を事業化するのも一つの方法かもしれないが、特定の場所を神格化してしまうというのも環境保護には有効な手段ではあるまいか。
つまり「この地域には神様が宿っているから自然を壊してはならない」といった風である。笑うなかれ、実際霊峰富士にしろ、御嶽山や熊野山にしろ、信仰が盛んな地域には、必ず豊かな自然が残っているではないか!要は考え方の問題であろう。発想の転換が必要なのだ。そう考えると霊峰富士のふもとで自衛隊が火力演習を毎年行うにあたってきちんと神様の了承を得ているのかどうか知りたい。
この一世紀ほど人間は、ダーウィニズム的な進化の頂点にいる優れた生物であるというおごりや、「国家の品格」の著者の藤原正彦教授の否定する科学万能主義や唯物主観の蔓延によって勝手に自然を作りかえ、多くの自然界の生物を絶滅へと追いやった。
しかしどうであろうか。人間も自然の一部であり、人間は自然の中で生かされているという認識の下では、蟻やだんご虫と同じである。死せば土に帰る自然界の一員と言えないか。魂のレベルは別としても。
本当の教育とは、知識とともに人間性を養うことが大切だ。将来を担う子供たちには、自然環境の問題を通じて、今一度道徳や心の教育が見直されるべきではなかろうか。
7月25日(火)